フォルクスワーゲンタイプ1(ビートル)

フォルクスワーゲンタイプ1は伝説の大衆車!ビートルの名前で世界的な人気車となるまでの歴史

フォルクスワーゲンタイプ1は「ビートル(カブトムシ)」の愛称を持ち空冷エンジン搭載の小型大衆車の名車として世界的に有名。ビートルが保持するスゴイ記録や日本の自動車業界に与えた影響、知っておくべき量産化までの歴史を解説。中古で購入する際の注意点もご紹介!

フォルクスワーゲンタイプ1は伝説の大衆車!ビートルの名前で世界的な人気車となるまでの歴史

フォルクスワーゲンタイプ1は「ビートル」の名前で世界中で愛された名車

フォルクスワーゲン タイプ1とは、その名の通りドイツの自動車メーカーVOLKSWAGENが製造した乗用車第一号です。小型で丸みを帯びたデザインからドイツで「ケーファー(Käfer =カブトムシ)」の愛称がつき、その後、英語でカブトムシを意味する「Beetle」の名が世界中に普及しました。

世界的大ヒットカーとして自動車の歴史に名前を刻んだフォルクスワーゲンタイプ1とはどんな車だったのか。記録や歴史を振り返りましょう。中古での市場価格なども紹介します。

ビートルは世界的自動車メーカーであるフォルクスワーゲン社の第一号車

フォルクスワーゲン ビートル タイプ1 1957年式の左サイドフロントビューモデルチェンジすることなく62年生産され続けたタイプ1 「ビートル」として今なお世界中で愛されている

ドイツの自動車メーカーであるフォルクスワーゲンは、1937年に設立され、現在ではポルシェ、アウディ、ランボルギーニ、ベントレー、ブガッティなど、世界の名だたる自動車ブランドを傘下に治める大企業です。2016年、2017年には、世界新車販売台数ランキングで2年連続1位を獲得しています。

そんな世界的自動車メーカー「VOLKSWAGEN」の乗用車第一号にあたるタイプ1は、1941~2003年まで62年にわたり製造されました。改良はありましたが、フルモデルチェンジすることなく、単一モデルとして歴史を刻んだのが特徴です。

世界でもっとも売れた四輪乗用車、累計販売台数「2152万9464台」の大記録を持つ

フォルクスワーゲン ビートル タイプ1 1957年式のフロントビューかつて世界中どこでも見かけた「カブトムシ」のファニーなフロントマスク

フォルクスワーゲン ビートル タイプ1 1957年式の左サイドリアビュー空冷水平対向4気筒エンジンをリアに搭載 後輪を駆動した

フォルクスワーゲンタイプ1、通称ビートルの累計販売台数は1941年~2003年の62年で2152万9464台。単一モデルとしてこれほどの数字を持つ四輪自動車は他に類がありません。

ちなみに、車名が同じ単一車種として最も累計販売台数が多いクルマは、トヨタのカローラです。2016年には4,400万台を達成しています。

ただし、カローラはカローラアクシオ、カローラフィールダーなど「カローラ」とつく車すべてを計算しています。もちろんカローラもすごい記録には違いないのですが、ビートルと単純比較はできないでしょう。

タイプ1は後継モデルも含めると80年の歴史がある!2019年にビートルの販売終了が決定

ニュービートル最終2019年モデル80年にわたるビートルの歴史 その最後を飾る2019年モデル

タイプ1の製造中止後は、実質的な2代目にあたる「ニュービートル」が後継モデルとして人気を博し、愛称だったビートルが正式車名になります。その後、2011年に3代目「ザ ・ビートル」が製造されたのですが、残念ながら2019年中の生産終了をフォルクスワーゲン社は決定しました。

タイプ1から通算すると、約80年の歴史に幕が下りる訳ですが、ビートルが自動車の歴史にその名前を刻んだことは間違いありません。

フォルクスワーゲンタイプ1のスペックや後継モデルとの違い

フォルクスワーゲン タイプ1のシャシー後部とむき出しの空冷エンジンポルシェへと繋がる空冷フラット4(水平対向4気筒)エンジン 元祖ボクサーの乾いた排気音が聞こえてきそう

タイプ1と後継モデルとの最大の違いは、タイプ1はエンジンが空冷で、RR(リアエンジン・リアドライブ)式だということ。エンジンを後ろに積んでいますから、トランクルームは前側にあります。

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フォルクスワーゲン・タイプ1諸元表
全長4,070-4,140mm
全幅1,540-1,585mm
全高1,500mm
車両重量730~930kg
乗車定員5名
エンジン種類空冷水平対向4気筒OHV
ボディタイプ2ドア セダン
カブリオレ

年式によってデザインは微妙に異なり、それにより全長・全幅には差があります。エンジン排気量は初期は1.0Lですが、後に拡大が進み、最終的には1.6Lまでラインナップ。オープンモデルである2シーターカブリオレと4シーターカブリオレも存在します。

ビートルの歴史とは?フォルクスワーゲンタイプ1が世界的な人気車となるまで

映画やドラマ、アニメなどに登場することも多いビートルは、車に詳しくない人でも存在を知っている超人気カーです。

しかし、ビートルの存在を語る上では、第二次世界大戦前後の歴史を無視できず、世に出たのは数奇な運命の巡り合わせによるものでした。

ビートルの設計者は「20世紀最高の自動車設計者」とも呼ばれたポルシェ社の創業者フェルディナント・ポルシェ

フェルディナント・ポルシェ数々の名車を生み出したポルシェ博士 戦時中は戦車(ポルシェティーガーなど)の開発にも携わった

フォルクスワーゲンタイプ1の設計者は、オーストリア出身のフェルディナント・ポルシェ。「20世紀最高の自動車設計者」とも呼ばれる人物であり、自動車ブランド「ポルシェ」の実質的な創業者です。

ポルシェ氏は優れたレーシングカーなどを多数手がけた優秀な設計者でしたが、そんな彼の才能を持ってしてもなかなか叶わない夢がありました。それは「高性能な小型大衆車の開発」です。

たびたびチャンスは訪れたのですが、自動車開発には多額の費用がかかります。「車は富裕層のもの」という考えが当時は当たり前。1930年にドイツに自身のデザイン事務所ポルシェを構えたものの、実現へのハードルは非常に高いものでした。

ヒトラーの国民車計画のもと、ポルシェ氏は小型大衆車の量産化に向けて本格始動

国民車の模型を前にご機嫌なヒットラーと閣僚たち車好き(今で言えば車オタク)なヒットラーの肝いりで始まった国民車構想 これがのちのビートルとなる

ポルシェ氏がドイツに事務所を構えて間もなく、1933年、アドルフ・ヒトラーがドイツ首相に就任。首相就任当時のヒトラーの掲げた政策に「アウトバーンの建設」と「国民車構想」があります。アウトバーンとは、ドイツ国内を網羅できる高速道路のことです。

ヒトラーは、「国内の道路網を整備し、国民皆が車を所有する」という理想を掲げ、実現に向けて動き出します。そうして小型大衆車の開発を依頼したのがフェルディナント・ポルシェ氏だったという訳です。

就任当時のヒトラーは政治家としての手腕が高く評価されていましたし、ポルシェ氏にとっては何度もメーカーの資金不足等の問題であきらめた夢を実現する最大のチャンスでありました。

ヒトラーが考える小型大衆車の条件は厳しく、特に「1台1000マルク以下で販売」という部分には困難が予想されましたが、それでもポルシェ氏は決断。1934年に正式な開発契約を結びます。

1938年にプロトタイプが完成し、「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」と名付けられる

ロールアウトしたKdF-Wagenを前に語り合うヒトラーとポルシェ博士ロールアウトしたプロトタイプ「V303」これがタイプ1の原型となる

1937年、国策企業としてフォルクスワーゲン社が誕生。「VOLKSWAGEN」というのは、ドイツ語で国民車を意味します。

翌1938年にはプロトタイプ「V303」が完成し、これがほぼタイプ1(ビートル)の原型となっています。もともと車オタクだったヒトラーはポルシェ氏を称賛し、その車に「KdF-Wagen(歓喜力行団の車)」の名前を付けます。歓喜力行団とは、同時のドイツで国民に余暇活動を提供した組織の名称です。

KdFワーゲンのプロバガンダポスターアウトバーンを建設し国民に広く自家用車を所有させる計画だったが、ほどなく戦禍の中に呑まれ消えていくことになる

1939年の第二次世界大戦によりKdF(タイプ1)の量産化は立ち消え

荒れ地をゆくキューベルワーゲンタイプ1のシャシーを元に開発された軍用車(キューベルワーゲン) 戦争によりこうした軍用車両の生産が優先された

しかし、結局フォルクスワーゲンタイプ1が日の目を見るのは戦後となりました。1939年に第二次世界大戦が勃発。戦時中に少しだけ製造しましたが、あくまで軍事用であり、国民の車ではありません。また、後にタイプ1の自動車工場も空爆被害に遭い、大きな被害を受けています。

1945年、戦後のフォルクスワーゲン工場の管理を任されたイギリス軍将校の手によって「タイプ1」に改名し、量産化が実現!

1945年に第二次世界大戦が終戦。空爆被害のあったフォルクスワーゲン工場にやってきたのはイギリス軍将校アイヴァン・ハースト氏でした。

ハースト氏は、一目みてそこにある車の先進性を見抜き、廃墟と化していたフォルクスワーゲンの工場を復興させ、量産化に向けて始動。「フォルクスワーゲンタイプ1」と名称も変更し、1945年の終わりには月間1000台ペースで製造という驚くべき早さで復活を遂げます。

1950年代にはタイプ1(ビートル)は世界的な人気車に!晩年のポルシェ氏が見た夢の光景

1952年型フォルクスワーゲン タイプ11952年型のタイプ1ビートル 2分割された後部窓(スプリットウィンドウ)が特徴的

その後、1950年代にはフォルクワーゲンタイプ1(ビートル)は世界的な人気車となり、1955年には累計100万台を達成。ドイツの復興にも大きな役割を果たしました。

戦後、設計者のポルシェ氏は戦争犯罪人の容疑で、2年近い収容所・刑務所暮らしを余儀なくされていました。ポルシェ氏は一技術者に過ぎず、彼自身は政治にはなんの関心もなかったようですが、そうした主張は簡単に通るものではありませんでした。

1947年に保釈された後、1950年にフォルクスワーゲンタイプ1の工場を視察に訪れたと記録されています。長年の悲願だった「小型大衆車」が次々と製造されていく光景をポルシェ氏はそのとき見たのでしょう。翌1951年、収容中に健康を害していたポルシェ氏は75歳でこの世を去ります。

日本でのフォルクスワーゲンタイプ1はどんな存在?

世界的な人気車であるビートルは、日本の自動車製造にも影響を与えています。戦後の日本でビートルがどのような存在だったのでしょうか。

1952年にヤナセが輸入販売を開始し、ビートルは「お医者さんのクルマ」として親しまれる

タイプ1(ビートル)は、日本では1952年からヤナセが輸入販売を開始しています。冬でも速やかにエンジンがかかって発進できるため、急な往診がある開業医などに多く愛用されました。

富裕層以外には簡単に手の届くクルマではありませんでしたが、「お医者さんの車」として親しまれていたのです。

日本の元祖大衆車である軽自動車スバル360「てんとう虫」のデザインにも影響を与える

1966年式 スバル360 K111型の左サイドビュー1966年式 スバル360 旧中島飛行機(スバルの前身)の技術が生きたエポックメイキングな車体

1958年に発売されたスバル360は、日本の軽自動車として初めて大人4人乗りを実現。日本政府が考えていた「国民車構想」の要件を満たすに留まらず、予想を上回るハイスペックを成し遂げた国産名車です。スバル360が日本のモータリゼーション革命に与えた影響は非常に大きいものがあります。

スバル360の見た目がフォルクスワーゲンタイプ1から影響を受けていることを疑う余地はほぼないでしょう。タイプ1に「ビートル(かぶと虫)」の愛称があったのに対し、スバル360には「てんとう虫」のあだ名がつきました。

スバル360の評価は欧米でも非常に高く、「アジアのフォルクスワーゲン」とも評されました。
世界の元祖小型大衆車代表がビートルなら、日本の小型大衆車代表がスバル360(てんとう虫)という訳です。

タイプ1(空冷ビートル)を中古で購入するときのポイント

フォルクスワーゲンタイプ1の製造は1941~2003年、後継モデルに位置付けられた「ニュービートル」の製造は1998~2010年、「ザ・ビートル」の製造は2011~2019年です。
後継モデルと明確に区別するため、タイプ1は「空冷ビートル」とも呼ばれます。

タイプ1は個体数は多いが状態はモノにより大きく違うので、高年式から探す

ビートルタイプ1 2003年モデルビートルの最高年式はメキシコ製の2003年モデルとなる

タイプ1は、1941~2003年まで62年までの間に2152万9464台が製造されています。旧車はプレミアがつきますが、個体数は多いですから、中古での購入も難しくはありません。

ただし、個体数は多くても、状態は本当に千差万別。乗って楽しもうと思うのなら、まずはできるだけ高年式のものを狙うのがオススメです。

空冷ビートルを探すときには、フォルクスワーゲンの専門店で相談に乗ってもらうと安心

タイプ1(空冷ビートル)は、オークション等でも取り扱いがありますが、フォルクスワーゲンのタイプ1やタイプ2(通称ワーゲンバス)は日本でも非常に人気の高い車ですので、全国にVW専門ショップが存在します。

ビートルはフルモデルチェンジこそしてませんが、年式によってはデザインがやや異なっています。まずはこうした専門店で相談し、自分が「これだ!」と思える1台を探していきましょう。

フォルクスワーゲンタイプ1はまさに歴史に名前を刻んだ伝説的な大衆車!

フォルクスワーゲンタイプ1

フォルクスワーゲンタイプ1は、「ビートル」と呼ばれる愛らしいデザイン、空冷エンジン独特のフィーリングなど、現代にも通じる魅力に溢れたクルマです。

既にタイプ1の製造は中止され、後継にあたるザ・ビートルも2019年での販売終了となるのは寂しい限りですが、自動車の歴史に名前を刻んだのは間違いありません。
映画やドラマ、そして街でも、まだまだ元気に走るビートルの姿を見かける機会はあるはずです!